今宿五郎江11次例は大規模調査により一度に弥生後期〜古墳前期の集落の大部分を調査したにもかかわらず
今のところ確実なものは鉢(椀)類のみのようである
元岡46次例は筒坏であるが これらのように筒坏や鉢(椀)類のような食器のみが出土する例が散見される
下月隈C遺跡も大規模調査により弥生後期〜古墳前期の集落の大半部分を発掘しているが
出土した楽浪土器はいずれも椀坏類のみである
博多や雀居のように長頸壺のみの出土の場合は評価に苦しむが
原の辻や高畑例のように筒坏が模倣対象になっていることからすれば
楽浪土器の食器(椀坏類)を当時の首長層が好んで使用したか
と考えることもできる
一方 比恵・那珂では楽浪土器の器種が多様で出土の時期幅も広い
量的にはやや劣るが 糸島の諸拠点遺跡(三雲 深江井牟田 御床松原)や原の辻の様相に準じ 対外交易の拠点としてよい
椀坏類のみを出土する遺跡は 首長層の噂好により
こうした対外交易拠点から二次的に楽浪土器を入手したと考えられよう |
※ 楽浪土器 : ろくろ使用・叩きによる縄蓆紋・型造り・灰色・泥質土器・滑石混和胎土
BC2C末頃から・還元炎焼成の瓦質土器
|
四郡設置以降 漢の灰陶の陶質技術が伝わり 地元の土器に影響を与えたとされている
在地的土器製作伝統上にあるとも 燕式釜などの燕系技術の影響下に成立したともいわれる
さらに 灰陶広口短頸壺に関しては 山東地方からの交易品がベースだとの報告もある |
|
|
楽浪土器の成立と拡散(pdf) | 勒島貿易と原の辻貿易 | |
対馬・壱岐・糸島・福岡などの玄界灘沿岸の交易ルート沿いの臨海域の砂丘上に主に分布
三雲・井原遺跡の周辺では 深江井牟田遺跡・御床松原遺跡・今宿五郎江遺跡・今宿大塚遺跡 |
三雲地区での出土は臨海域にあたらない出土例で
吉武遺跡・東入部遺跡と共に例外的といえる |
しかも特定個所での集中的出土はめずらしいのだが
三雲地区では弥生中期後半(AD1C)〜後期(2C以降)にかけて継続的に出土する
|
※流動性の高い海の民の砂丘上の遺跡である3世紀の西新ではすでに出土はなく
楽浪土器の出土はAD200年前後には終了するものかとみうけられる |
楽浪漢墓系遺物の副葬品で溢れかえる南小路甕棺墓:[侯王墓]の存在は
この三雲地区が倭國の中心域にあったことをそれ自体が雄弁に物語るものである
|
1世紀に発生した三雲地区の王権は 郡を介した前漢との外交による後ろ盾を背景にして
海の民との共同体制下に交易および金属加工技術を独占下に置き
糸島・福岡圏を奴國(㚢國・女國・那國・那加・那珂)として血縁でひとつに纏め上げ
血を媒介にして九州北半の女王界を形成した |
*) 楽浪系渡来人 : 「名楽浪人爲阿殘 東方人名我爲阿 謂楽浪人本其殘餘人」
海の民の総元締めの首長とみたい (例えば記紀でいう「大穴牟遲~」)
|
|
|

  | | 勝本町文化財調査報告書第3集刈田院川上流 標高80m 丘陵上イネは少なく小麦が殆ど(花粉分析) 原の辻に比し農耕的要素に乏しい
漁労・狩猟・交易に従事する集落跡 弥生中期後葉 〜 弥生後期後半
環濠・高地性集落 勒島交易に代わる壱岐の交易拠点 くず銑鉄を原料とする鍛冶炉 鉄生産や干しアワビなどの交易品 +漁労関係遺物(鯨骨+獣骨+石) +後漢鏡片+卜骨+鉄鏃 +鉄銛+鉄釣針 +鋳造鉄斧+鉄鎌+鉄鍬先 +鉄ヤリガンナ+刀子 +(ろくろ仕上げ) 楽浪土器 +三韓土器 +弥生小形仿製鏡 |
| | 片苗湾が上流2km奥まで入込み舟が利用された
 | | | |  |
|
戸田遺跡 (車出遺跡群)
三角形粘土帯土器 : 後期型粘土帯土器 < 粘土帯土器 << 初期鉄器時代 | 弥生土器 | 楽浪土器 花盆形土器 |  | |  |  |
|
|